トンネルを抜けて

 

 32歳になりました。32年間生きてきたことになります。今度33歳になります。ゾロ目です。

 この「もてない男の心の語り」という、ステディな異性のいない状態からの思いをまざまざと語り始めたのが1998年5月のこと。かれこれ7年近く前ということになります。今でこそ「もてない」というテーマについて書くサイトは多く、「非モテ系」というジャンルさえあるそうですが、当時はそういうサイトは他に類がなく、「もてない」系サイトのパイオニアとしてユニークな存在だったのか人気が出たものでした。雑誌に掲載されたこともあります。そしてそこを運営し続けて早7年が経たんとしているところです。

 その間ステディな異性たる「彼女」という存在があった期間もありました。語り「できちゃいました(^-^)」は1999年5月17日に更新されています。私が27歳だった頃ですね。彼女ができたことを報告した語りです。そして、「めでたかない復活」にてその彼女さんと別れて友達に戻ったことを報告したのは2000年11月10日でした、私が28歳の時ですね。

 それからず〜っと独りで来ました。「彼女」という存在なしでです。

 それは長いトンネルのようなもの。

 なるほど、別に彼女というステディな相方を作ることだけが人生じゃない。独りでだって人生は楽しめる。実際私は独りで世界旅行もすれば恋愛映画も映画館で観れる、独力独歩は感心されるほどです。でも、だからといって彼女を作らない方がいいと「もてない」容認の旗を先陣切って振りたいわけでもない。そう、「もてない」系サイトのパイオニアであったとしても。

 それこそ、もてない系サイトのパイオニアにしては、意外にフツーに恋愛してフツーに結婚でもしたいという考えを持ってきたんですよね。だから、トンネルと感じられたものでした。

 そのトンネルを通り抜けてきている間、28歳から今まで、何人の友達が結婚し・・・何回3万円を包み・・・友人代表としてのスピーチも何回したでしょうか「よかったね、おめでとう!!」で締めるスピーチを。

 いや、だからといってスピーチだって決して嫌々やっていたわけではありません。かえって私自身が志願した位ですから。知恵を絞って起草して当人達のみならず親御さん含めてたいそう喜ばれもしましたが・・・

 やはり、結婚していく友人達を見るに「ブルータスよ、お前もか・・・」という皇帝カエサルの落胆にも似た複雑な心境は否めません。そう、意外にフツーな恋愛観を持っている私ですから。

 また、大きな失恋もしました。とってもとっても好きになった女性に。2002年の春のことでした。そして、その経験を元に語り「恋のオペ」が生まれました。トンネルが先があるトンネルではなく、先は行き止まりのトンネルに思えたのはこの頃からでした。

 しかし、そんなトンネルにずーっと甘んじているのはうまくない、トンネルの中に閉じこめられているのなら発破(ダイナマイト)を仕掛けてでも地上への道を開こう、そんな決意をしたのが2004年の春でした。

 その春の平日の一日。僕は実家に突然話があるからと呼ばれました。お見合いの話でした。恋愛ごとに関してはあまりにも情けない息子に業を煮やし、またかわいそうに思ってのオファーだったのでしょう。

 でも、自立心が強く、だからこそ親から離れて独りで生きていて、不器用なほど生真面目生一本で来ている私にはその情けが情けなくなってしまって素直になれなかったのです。

 すると親からも「だからお前はダメなんだ、ひとのことも考えられないのだから、友達だって少ないし器用じゃない、そんなお前はかわいそうだ」という論調。私の方も「ダメとはなんだ、そりゃダメかもしれないけど、独りで生き抜いてきているんだ、気張ってさ」っていう意地。

 わかっちゃいるけど、不器用で・・・そういう点で図星なことを言われると意地を張ってしまうものです。それ以来ほとんど実家には帰っていません。

 行き止まりのトンネルだったらそれでもいい、発破を仕掛けてでもトンネルからはい出てやると決意したのはその頃だったのです。

 

 トンネルから這い出る武器として僕が今まで研いできた牙は、結局、このようなホームページを作ってきたネット力と、そして、毎日書いてきた文章力(毎日更新「今日の一語り」で)ではないだろうか、それを活かしてがんばれる場所。それはネット上で出会える場所、すなわち、「出会い系」ではなかろうか。

 僕の最初の発破はそれでした。

 一生懸命練り上げた文案を一人一人にカスタマイズして日々十何通と送る日々。数ヶ月で累計百通二百通は超えたでしょうか。ほとんど返事などもらえません。それでも、そこまでがんばると何人かとは会うまで至ることはできるのですが、続きません、メールの返信が途絶えたり、はっきりノーを出されたり。それらはやはり「振られた」と言って差し支えないでしょう。その意味では半年ほどで5人ほどに振られたことになります。

 5人目に振られた時には、さすがに、やっぱダメなんだという絶望感で打ちのめされましたよね。もうこのトンネルに一生幽閉されたままじゃないだろうかと。そんな思いは、2004年11月21日の今日の一語り「振られました」に吐露せざるを得ないくらいでした。

「自分は愛されないダメな人間です。わかっているからこそ、その他の付加価値を添付するようにがんばってきた。ダメダメにならないように・・・でもこれだけ負け癖がつけばやっぱだめなんだろうな。そう思う方が自然です。そうなると、世の中やんだくなくなる。

 でも、生きて行かねばならない・・・そればっかりは生きて行かねば・・・。」

 そう書いていた私は脱獄し損ねた囚人の諦観にも似た境地だったのでしょう。

 思いました。「こんな時に話せる友達もおらず、家族とも器用にやってはいかず、一人暮らしにならざるを得ない、これをダメといわずに何をダメと言おう、僕はダメだ」

 絶望の淵にいたからこそ、あの一語り「振られました」を書いてしまったのです。一寸の虫にも五分の魂、いくら自分を「もてない男」と言いのけてしまっている私でさえ、進んで振られ話を告白するほど落ちぶれてはいません。でも、単純に一人に振られたということ以上に僕の人生自体を揺るがす力があっただけに、書かざるを得ない・告白せざるを得ない衝動に駆られたのです。

 そして、もう出会い系はやめようと決意しました・・・だったら、もうできることはない・・・

 ここまでやれることはやり尽くして、でもダメで絶望の底をあえいでいる時に奇跡が起こったんです。そう、まさに奇跡です。

 私の一語り「振られました」を高校時代の友人が読んだのです。その友人の結婚式にも行き、式から呼ばれたくらいですのでかなり仲がよい高校時代の旧友と言えます。夫妻の新居訪問もしたことがあるので奥さんとも顔見知りでした。

 なんとっ!!その友人の奥さんが自分の友人を私に紹介したいというオファーが来たのです。

 

 絶望の底に入った一筋の光明、地獄の底であえいでいたカンダタに降ろされた一本の蜘蛛の糸のように私が感じたことになんら大げさも嘘も混じっていないことはみなさんにも想像に難くないでしょう。

 「出会い系という女性の買い手市場の中で大津さんを安売りしてしまうのはいかにももったいないのではないですか?」という女性読者の声を頂いたことがあります(今日の一語りの中では「出会い系」にチャレンジしていると書いていたこともあります)。だったら、友人の紹介ということになるのでしょう、あいにく友達は少ない(ひとりひとりとは深く付き合っているにせよ)。友人の紹介なりでなんとかなるのなら出会い系にははなからチャレンジしていません。でも、こんな感じで「紹介」話が来るとは、これを奇跡と言わずなんと言いましょうか・・・。

 もっと若く「おれがおれが」という自我が強い頃なら、このオファーも素直には受けられなかったかもしれません。しかし、自分の力をすべて出し切ってそれでもだめだった、今、このオファーはラストチャンスではなかろうかとさえ思われたのです。

 前述のように、親に言われました「お前は自分のことしか考えない・・だからダメなんだ」・・・分かっているからこそ頭にも来て以来家に帰っていないのですが、もっともなのです、分かってはいます。

 分かってはいたつもりでしたが、やはり染みついた三つ子の魂、今までの出会い系での5回の振られも、自分を表現することは十分すぎるくらいできたにしろ、相手のことを思いやれての行動ができていたかとなると十分とは言えなかったのではないか・・・もう「おれがおれが」の自我はいい、今度こそ、そう、今度こそ相手のことを思いやっていこうじゃないか・・・。

 分かっていたつもり、でも、実践できていなかったことをこの最後の機会に実践しようじゃないか、このラストチャンスに。ようやっと分かった気がしました。

 このオファーが来たのが11月末。まぁ、お見合いというか、その友人夫妻とお相手の女性、そして私といったダブルデートを組んで頂けたのは2004年12月23日というクリスマス・イブ前日でした。

 それまでの間、まぁ、準備期間だったりします。これが切れたらあとがない、細い細い蜘蛛の糸を登り切るためにどうするべきだろうか・・・熟考し、また、人に相談もしました。

 今でも親友でいる元カノさんに、今度は相手のことを中心に考えて勝負しようと思うと決意を伝えると「それはそうね、でも、あんたの場合は相手の望むこと、つまりは正解を出そうとして自分に無理をかけるところがある。それでは続かないからあなたがそうしたい、好きだと思ったらそうすればいいし、そうでなければそうしなければいいのよ」と言ってくれました。なるほど、私にはそういう傾向がありますから、そうかぁと思わされたものです。さすが元カノさんだけによく分かっているなと。12月23日には私は相手に気に入ってもらえる最善の努力をするとともに自分の気持ちを見極める必要もあることが分かりました。

 また12月初旬、前の職場の先輩と北海道を旅行しました。その先輩も「今日の一語り」の愛読者であるので、振られの事情は知っていましたが、まぁ、次なる勝負があることをほのめかすと「そうかぁ、それは相手の期待にも応えなきゃいけないことだよ」と言ってくれました。なるほど、自我の強い私に自重を促した言葉だったのでしょう。素直にそうだよなと思えました。

 そして、相手のことを考えるとどうすればよいか、考えてくると・・・自然と外見のことにも及びました。外見よりも中身だよと思って苦手な外見的装いはそこそこにしてきました(というかスーツ姿ならともかくカジュアル服は全然知らないわけで・・・7年もののシャツとかが現役だったりしたのです)。しかし、やはり、ぼろっちい格好では相手がどう思うか?と考えれば、苦手なカジュアル服にしたって考えて工夫していかねばならない。相手の方だって工夫してくるんだろうから私がそこで「いや中身で勝負ですから」っていうのは失礼とも言えるじゃないですか。相手の方の努力に対してそれなりにこちらも努力で返すのが筋だ。そんな当たり前とも言えることに今さらながら気づいたり。

 上着やシャツ、ジーパンを新調したりと一揃え買ってみたりしました。慣れない服屋とかジーパン屋に行ったりしてね。そして、生まれて初めて美容室などというものにも足を踏み入れてみました。なんか予約しなきゃいけないのかなぁと電話を入れてね。すっごいどきどきでしたが、何とかクリア。金払ってサービスの提供を受けることに何をドキドキする必要があるのかという論はあるでしょうが、今まで一回も行ったことのない場所に行くというのはドキドキするものです。

 そうやって、慣れないなりに外見的な装いの努力も尽くしたつもりで12月23日は来ました。

 私に関しては相手の女性にはホームページ「もてない男の心の語り」「今日の一語り」は紹介済みとのこと・・・正直、えっ??とは思いました。ここまでさらけ出してしまっているものを見られている以上(というか振られ話も出しちゃっていましたし)、かっこのつけようはないのかな・・・そして相手の女性は「面白い」と表してくれていたそうです・・・自分で作っていながら「なぜ??」と思ってしまったくらいです(^-^)

 決戦の場としては、新宿・高野フルーツパーラーという場所を用意して頂きました。レディースバイキングという男性は女性同伴でないと入れない場所でありますし、それはそれで「もてない男」的にはもっとも縁遠い場所であり一時と言え入れるのは貴重な体験だなぁなどと思いつつも、いざ当日は緊張のあまりそれを味わう余裕はなかったかもしれません。なにしろ最後に残った蜘蛛の糸でしたから、これを切らないように、バイキングだからといって普段の大食いぶりを発揮して食べきれないほど持ってこないようにしなきゃとか(^-^)

 ホストの友人夫妻もとてもよく考えてくれて、その後は、新宿の街をウィンドウショッピングをしたり、お茶したり、最後はサザンテラスでのイルミネーションを見て解散というよく考えていただいた一日でした。

 相手の女性は小さい方だなぁという第一印象。しっかりしているなごみ系の人だと友人の奥さんからは事前の紹介を受けていましたがなるほどなとは感じました。しかし、このダブルデートでは緊張が先に立ったこともありますし、友人夫妻もいたこともありますので、なかなか話せず、JR新宿駅で2人になった時(友人夫妻は私鉄に乗って帰って行ったので)「メールしますね」と伝えるくらいでした。相手がどう感じるか?相手の女性のことを一番に考えて挑もうと思った勝負の日・・・手応えは・・・よくわからないという感じ。相手の女性がどう思ってくれているのかも分からず、蜘蛛の糸が繋がっているのか切れたかどうかもよくわからない。

 次のデートで2人で会って見定める必要があるのかな・・・。

 次の日の12月24日クリスマス・イブに「またお会いしたいです」とメールを打ちました。

 すぐに返事があり、OKとのこと。それからは毎日メールのやりとりをして次のデートは12月30日に映画にしようということに。トム・ハンクス主演の「ターミナル」を観に行って、その後池袋サンシャインに登って夜景を見たり・・・。思いのほか長い時間話し込んでしまいました。朝待ち合わせて映画を観て、夜7時くらいまでいたでしょうか・・・。気張らず話せる方だなぁと思ったものでした。その次にあったのが年が明けて2005年の1月22日。お互いの都合が合わず、かなり長い期間が開きましたが、まぁ、その間毎日メールはやりとりしていたりしました。

 今回は相手を思いやることを第一にやっていこう、そして、その上で自分の気持ちを見極めようと決意してやってきたのは前述の通りです。

 メールも思いやりということをモットーに送ってきたつもりでしたが、それにたいして相手の女性も思いやりをもって返してきてくれたことがとてもうれしかったように覚えていますし、また、私のことを理解しようと努力している姿勢が窺えたのもうれしかったのです。そして、22日まで会えないという長い期間がちょっと寂しく思ってきていた自分にも気づきました。あ、これが「好き」ってことなのかな?

 1月22日は横浜で一日を過ごしたのですが、朝から晩まで歩いたり食事したりお茶したり、いっぱい話して、そして相手の女性も楽しそうにしてくれていて、なんかとても気持ちが盛り上がった自分がいました。日本一高いビル、あのランドマークタワーに登って夜景を見ながら、「あの、今日まで長い間会えなくて、それをさびしく思っている自分がいて、それはやはり好きだっていうことだと思って、そして僕を理解しようとしてくれる姿勢はとてもうれしくって、だから、よろしければお付き合いしてください」みたいなことを、その何倍も回りくどく言っている自分がいました。

 返事は「はい」とのこと。

 

 信じられないことですが、僕はトンネルを抜けたようです。あれだけ八方手を尽くして発破を仕掛けてでも出てやろうとあがいて出られなかったトンネルを抜けられたようです。

 今では順調に毎週逢瀬を重ねていますし、要するにこれが「彼女」なんだなっていう実感も持ててきています。要するに幸せです。

 トンネルの暗闇が長かったせいで明るさに慣れず実感が湧かない部分はあるのでしょう・・でもだんだんと実感が出てきています。幸せなんだなって。

 どうして、お互いが好きになったのかということを後日談として2人で話したことがあります。彼女は僕のことをまずはホームページをみて文章力に感心してくれ、人柄も良さそうだなと思ってくれていたとのこと。そして、12月23日に会って以降のメールのやりとりも楽しく感じてもらっていたそうで、そして何度か会ううちにいつしか気持ちを傾けてくれたらしい。

 間違ってはいなかった!!相手のことを思いやることを第一に考えてのメールのやりとりをしたことも、また、今まで磨いてきた文章力も無駄じゃなかった、うわべよりも中身で勝負と磨いてきたことも間違いじゃなかった・・・そして、ホームページ「もてない男の心の語り」「今日の一語り」に心血を注いでライフワークとして来て、こういうページ達ですからたいそう冷やかされもしましたしいいことばかりじゃなかった、でも続けていて、それで僕の中身を感じてくれていたんだ・・・これも間違っていなかったんだ。そう、彼女との出会え・付き合えたという一点において全てが報われたのです。なんか泣きたくなるくらいうれしかったのです。トンネルでもがいていた期間が長かっただけに。

 同時に気づきました。今まで一人トンネルで苦しんできたと思っていましたが、いろいろな人の助けがあってこそトンネルを過ごし抜き、ついには抜け出ることができたということを。

 

 失恋するたびに話を聞いてくれ、いろいろな意味でブレーンとしてアドバイスをくれた元カノさんの存在は言うにおよばびませんが、トンネルの中でうめいていた時に私に自分の友人を紹介してくれた女性読者もいました。また、2004年11月末に振られた時も、携帯にかけてすぐには繋がらなかったものの、コールバックしてくれた高校時代親友は「世の中やになった」という僕に「死ぬなよ」とシンプルですが大きな励ましをくれました。また、「しょうがないさ、落ち込まないでね」とメールしてくれた前の職場からの友人もいました。嘆き節のチャットに付き合ってくれた女性読者もいましたし、「元気がない声が留守電に入っていましたが、どうしたのですか?」と翌日電話をくれた前の職場の後輩もいました。僕の振られ話を読んで「和行に女紹介するべや」と言ってきてくれた幼なじみもいました(その頃はすでに今の彼女と進行中でしたので断ったのですが)。また、多くの読者からがんばれコール頂いてきました。

 そしてなにより、クリスマスイブの前日の祝日という夫婦にとっても大事なイベントの日を割いて、ダブルデートを組んでくれた今回の仲人的役割たる高校時代の友人夫妻には感謝してもしきれないほどです。ありがとうございました。


 そして僕を好きになってくれた彼女、ありがとう♪


(2005年2月14日)

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