クリスマスはひがみの渦巻く日でもあるわけで 〜2009年クリスマスに寄せて〜


 日本人というのは集団の中で同化したい傾向を持つ。

 古くは聖徳太子が「和をもって尊しとなす」としたことを思い起こしても明白にわかることである。

 だから、例えば小学校に入ったら、方々から聞かれるのが「友達できた?」となるのである。友達を多く作ってコミュニケーションをとっていくことが重んじられるのは、集団の中で同化する方が日本では生きていきやすいことが言わずもがなであるためだからだろう。

 別に、人それぞれであるわけで、人付き合いが好きでないし向かない人だっているわけだから、個人でひとりで生きていくほうが本人のパーソナリティに合っている場合だってあるわけだろうが、結局、集団同化しないと、日本人という中では生きづらいのが自明なので、通信簿にだってもっと友達を作りましょうとか書かれたりすることだってあろうし、親だって友達の数を気にしてしまうのである。」

 大学くらいまで行けば、留年するのもありだし、中退する人も多くなる部分はある。でも、中学校までの義務教育、今は高校まではかなりの進学率で上がるものだから、そのへんで留年なり、浪人なりしてしまうとなるとちょっときついことになる。集団での同質性の点で遅れをとることになり、周りからの目が気になってしまうのである。

 私も大学に入るのに浪人をしているのだが、一浪までは「ひとなみ」と読むなど言われて特に珍しいものでもないのだが、同級生の中にはまっすぐ大学に入っている場合もあり、また、浪人も珍しくないがごとく現役も珍しくない半々くらいであることを考え、どうも自分がダメな気がしてすごく嫌な思いをした思い出がある。

 要は、同質性が重んじられる日本の気風において、自分がその同質性から外れてしまった気がして落ち着きが悪かったというのが現実だろう。

 率直な言葉を使えば、同質性から外れかけた自分が、同質性の中にいる人達(この場合は大学生になっている人たち)への「ひがみ」だったんだろうね。

 そういう局面は、人生の流れの中で何度も出てくる。進学の次は就職、その次は結婚、その後は子孫を作っていくという感じだろうか。

 さて、クリスマスというのは、一般的に恋人なり夫婦なり、もしくは家族が楽しむ日として認知されているのではないだろうか。

 その意味では、子供のころは家族の一員として楽しめる日であったが、成人後は、自分で恋人なり妻子を設けていかねば楽しめなくなってくる。

 私も、「もてない男」として長い間暮らしてきたので、クリスマス時期の独り身というものの悲しさも体で分かっている。

 これも同質性の文脈で理解できることで、20代以降、クリスマスは誰か恋人なり伴侶なりと過ごすべきという同質性が求められているところで、それができないことでの落ち着きのなさということだ。

 それこそ、私が体験した浪人生活時代の落ち着きのなさ、そう、同質性の中にいる人達への「ひがみ」なのである。

 クリスマスを楽しんでいる人たち、そう、そういう同質性の中にいる人達へのひがみが出てしまうものなのである。

 もてない男として長かった私としてはその「ひがみ」を否定しては自分を否定してしまうことにつながるのでできない。

 要は、もてない人たちにとって、クリスマスは「ひがみ」を持ってしまう日なのである。

 その意味では、クリスマスは「ひがみ」も渦巻く日という理解もできるのである。

 でもね、「ひがみ」を持っているからこそ、ここクリスマスルームとして毎年書いてこれたし、クリスマスをせめて独り身でも楽しもうじゃないかという努力もしてきたりしたものだ。

 今は結婚して、愛する妻もいるわけで、クリスマスの「ひがみ」は確かに減じたのだが、0ではないのが不思議なところだが、0にはなっていない。

 私は今30代なかばを越しているが、もちろんそれくらいになれば、子どもにクリスマスプレゼントを悩む中年男というのが同質性の中心になってくる。映画「ジングル・オール・ザ・ウェイ」( - goo 映画)なんて、まさにそのような父ちゃんを描いた映画だが、私は結婚も遅かったこともあり、子どもがいる父ちゃんという私の世代では結構多数派を締めているその同質性についていけていないわけで、ちょっとした「ひがみ」は持ってしまう。

 しかしね、「もてない男」として何年も語ってきて、苦節何年もあり、クリスマスでのひがみを何度も乗り越えてきた私は思うんだよね。

 「ひがみ」からの解放は、同質性への思いを断ち切らねばならないというこということ。

 そう、日本人の伝統的気風は置いておいて、自分は自分でいいじゃないか、周りからどう思われようと、今あるところで満足しようというところに至らねば、「ひがみ」からの解放はないということ。

 それにより生きづらくなるかもしれない、変わった人と思われることも多いだろう。

 同質性に近づく努力をするか、それが成ればいいわけだが、成らない場合は同質性への思いを断つ覚悟も必要なんだろうな。

 人生のタイムラインに、同質性との戦いによる「ひがみ」の生起は、ずーっと続くことなんだろうなって思いつつ、今年のクリスマスもそれなりに楽しく過ごさせていただいた次第で。

(私の今年のクリスマスの過ごし方は日々更新のウェブ日記「今日の一語り」にてご覧ください)

 

(2009.12.24)

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