コンプレックスの行き先、もしくは、罠

 

 さて、ひさびさに「もてない」論を語ろうと思う。

 前回語ったのが、2006年の12月末の私自身の結婚式を報告した語りであったことを思うと、半年以上開いてしまったことになる。ここまでインターバルが開いてしまったことには、やはり、結婚という「もてない」のひとつのゴールに到達したところで、どういう立ち位置で語っていけばいいのかという迷いもあったことも事実だ。また、「結婚」した(できた)者としての目線から「もてない」ということを語っていいのかという迷いもあった。

 ただ、ここで「もてない」を語るのをやめてしまっていいのか?と思う時に・・・ある種、今だからこそ語れることもあるんじゃないか・・・もっと客観的に「もてない」を見ていくことができるんじゃないか・・・そんな思いもあり、久々にキーを叩き始めたのである。

 さて、私の思う「もてない者」とは語り「「もてない者」とは 〜もてない者の定義〜」(2004.6.27)に定義づけたように、「今現在において彼女・彼氏がいない」という客観的要件、かつ「自分はもてない者であると思う」という主観的確信が同時に成立した人と言うことができよう。

 そう、「自分はもてない者であると思う」という主観的確信ゆえに「もてない者」はそれへの引け目、コンプレックス、劣等感に悩むことになるのは必然なわけであり、そういう主観的確信があったからこそ、私もこのような「もてない男」のページを持つに至ったわけだ。

 そして、その引け目、コンプレックス、劣等感に関して、私は語り「もてないことへの自覚はあながち悪いものじゃない」(2006.3.30)において、その引け目、コンプレックス、劣等感ゆえにもてない者はがんばっていけるということを語った。そう、その引け目、コンプレックス、劣等感ゆえに学業や趣味においてすばらしいものを持つ人がたくさんいる。

 特に学歴において秀でた経歴を持つ人がたくさんいよう。

 というのも、もてる、もてないというのが、異性の非常に主観的な価値観に左右されるものであり、なにをすれば、かっこいいのかなんてよくわからないわけだ。努力の方向がよくわからない・・主観に左右されるものなのであるゆえ、そのへんでうまくいかなくてコンプレックスを持ってしまっている「もてない者」は、客観的な指標で達成できるコンプレックスの「補償」を行おうとするわけだ。

 学歴のいいところは、客観的な指標で計られるある能力の客観的指標たり得るものであり、また、今の日本社会において、過去の学歴至上主義の時代に尾を引いて、未だにそれなりの社会的評価も伴うものであることから、もてない者にとっても目指しやすいものだからだ。

 と小難しく言ってしまったが、もっと平たく言えば、例えば、持って生まれた変えようがない容姿・体質で「キモイ」「クサイ」で門前払いになってしまったりすることがあることは容易に想像が付くことだが、これらは非常に主観的な問題で、今では小顔がトレンドであろうが世が世ならそうでない方がトレンドだったかもしれないし、また、日本ではたまたまアポクリン汗腺が少ない人が多い土地柄で無臭社会を過度に要求するだ社会だが、外国ではアポクリン汗腺が多い人が多い土地柄であるから体臭はさほど問題にならないわけである。もう一つ例を挙げたら、本人のためを思って思いやりを持って忠告したことも「ウザイ」の一言で嫌われたりしてしまうのも主観的門前払いであろう。

 それに比して、受験戦争においては、そんな主観的門前払いはないわけで、唯一の用件としては年齢や卒業という要件だけで、それら当たり前とも言える要件がそろっていれば門前払い学参加できるものであり、テストの点数というきわめて客観的な基準で決められる者である。一度や二度のペーパーテストで人生を左右することが決定されるなんて不合理だという思いもあるかもしれないが、「キモイ」「クサイ」「ウザイ」等々のもとに主観的門前払いを受けてしまう不合理よりはよほどがんばりがいがあるし、実際、学歴社会ではそれだけの努力をしたら、それにかなり忠実に正比例した結果が期待できる。

 思い立っての一年くらいの努力では学歴社会のトップに位置する東京大学までは無理かもしれないが、1年間の必死の努力次第で名門校に入ることができることが多かろう。ドラマ化までされた人気漫画である「ドラゴン桜」では、落ちこぼれから一年で東大合格を主人公たちが果たしていくわけだが、受験業界で話題を呼んでいるこの漫画の方法んい沿えばそれだけの相当の努力をすれば東大も射程圏内なのかもしれない。

 そんなわけで、もてない者は、「もてない」コンプレックスを補償するために、学歴において秀でることを目標とする場合も多いだろう。

 それは、学齢期における主たる庇護者、スポンサーである親の願いにも合致することから、学業に専念して秀でた結果を残すことが多かったりするわけである。

 いくら、異性受けしようと、外見を繕うことに努力したり、面白い話し方を工夫したりしても結局は主観の問題であるから相手に受けるかどうかは分からない。それに比べて努力のしがいのあるものに努力してそちらで秀でようという思いは悪いことではない。変にへこたれるよりも全然いいと思う。

 その意味で、私は前述の語り「もてないことへの自覚はあながち悪いものじゃない」(2006.3.30)において、もてないコンプレックスの有用性について語ったのだ。

 ただね、ここでひとつ警鐘を鳴らしたいことがあって語り始めたんだ。

 ひとつ、忘れられない光景があるんだ。目に焼き付いて離れない光景を目撃してしまったことが。

 東京の代表的な繁華街である渋谷・・・そこを歩いていたんだよね。なんでかなぁ、ダンスダンスレボリューションなどにはまっていたころだから多分ゲームセンターにでも行くためだったんだろう。だから、今から10年近く前かなぁ、少なくとも7〜8年前の話なんだけどね。だから、記憶に基づいて語るので多少の誤謬があるかもしれないが、ご容赦あれ。

 渋谷のまちなか、そうあの混雑している中を、私から言うのもなんだけど、さえない感じの男性・・・年のころはあのころの私とさほど変わりない感じだったから20台後半くらいに見えた方がなにか身分証みたいなものを胸のあたりに掲げながらゆっくり歩いているんだよね、ある一定の区間を往復しているようでいつまでも歩いている感じだった。ちょっと気にかかる光景だよね。

 私が何か所用を終えてまたそこを通りかかるとね、まだいるんだよね。思わずその男性の掲げている身分証を見てしまったんだ。とりわけ鮮明に覚えているんだけど、東京大学の大学院の身分証だったんだ。

 さて、この男性の行動をみなさんならどう解釈するであろうか?

 私はこう思ったんだ。渋谷の繁華街を東大大学院の身分証を掲げて歩いていたら、それに惹かれた女性から声をかけられることを期待していたのではないかと。より卑近に言い回せば、逆ナンパされることを期待していたのだろうと。

 そう考えないと、わざわざ身分証を掲げながら、渋谷という華やかな街を歩く必然性が説明つかないと思うのだ。

 その解釈でいいと考えて、私はこの男性の気持ちは「もてない」の語り部として非常に共感できたわけだ。

 その心境を察せざるをえないが、私がその男性の心理を解釈し推測を大いに含めて語ると、次のような感じになる。

 男性は、前述のような、もてないコンプレックスの補償のために学歴のために非常に努力をしたんだと思うんだよね。かなりのコンプレックスがあったからこそ東大に入ることができたし、それだけの努力はしたんだろう。私から見てもさえない感じであったから、やはり、もてなかったと思うのだ。

 でも、東大に入ってもすぐにもてるわけでもないわけで、思いあまってこのような行動に出たのだろう。

 そう、私の鳴らしたい警鐘はここにある。

 東大に入る→もてる ということはないということである。

 もてないコンプレックスを補償するために東大に入ったのは立派である。それは誰から見ても称賛に値することだ。客観的指標である東大合格ということは見事である。

 しかし、だからといって、主観が判断基準の「もてる」ということにそれが直結するわけでは決してないということなのだ。

 その男性は、そこを履き違えてしまったんだろうなと推測できるのだ。

 もてないコンプレックスの補償のために、客観的指標で秀でることを目指すことは確かに良いことだ。しかし、それはその客観的指標での成功であって主観的基準での、もてる・もてない問題へアドバンテージはあまりないということをしっかり分かっておかねばならない。

 でもね、なおかつ私がその男性に共感できてしまったのは、客観的指標での成功があたかも主観的指標での成功につながるかのような錯覚を、この世の中全体が持ってしまっている部分があるから、その誤解はある程度仕方ないことかとも思うんだよね。

 私は30代なわけだけれども、親世代は、我が子をとにかくいい大学にという学歴偏重の志向を持っていることが多い。確かにね、親世代の時には大学に行く人は少なかったし、実際に大学も東大を初めとした旧帝大系統ほか国立大学と今で言うところの有名私学くらいしかなかったわけだから、学士の絶対数も少なかったから、大学を出たと言うだけでそれなりの社会的ステータスが保証されたし、世の中全体が貧しかったからそのステータスに惹かれて結婚に至る場合も多かったから今ほどもてないことで悩まなかったわけだ。

 だから、親世代を中心に、いい大学に行けば結婚を含めてうまくいくと思う風潮も根強く残っているからだ。

 それは言ってみれば罠とも感じられるからくりである。

 もしかしたら、その男性もそのような価値観のもとで育てられたのかもしれないし、それを素直に自分の価値観にしてしまっているのかもしれない。

 これは私も似たような誤解をある程度してきてしまったことだから自戒を込めて語っていることでもあるんだ。

 現在は、かなりの多くの人が大学に行く時代になっているし、たとえ、旧帝大系の大学を出たとしても、それだけで結婚の話があるということはないくらい世の中全体が豊かになってきているわけだ。

 そう、昔にはよくあった、女性が生活のために男性のもとに嫁ぐというケースが減少してきており、女性も経済力をつけて自立してきていることはここで敢えて説明するまでもないだろう。

 そうなのだ。学歴を持っていてももてるとは限らない。学歴という客観的指標ともてるという主観的指標の、双方は、関係はないわけではないだろうが直接的に因果関係になるほどの強力な結びつきはないと言えるのである。

 だから、もてないコンプレックスを補償するために学歴等の客観的指標における成功を目指すのはいい、それはあなた自身がつかんだ成功だ。しかし、だからといって、主観的指標で計られるもてる・もてない問題においても成功できるとは限らない、客観的指標と主観的指標を混同してしまう罠にはまってはいけないということをここでは強く警鐘を鳴らしたいのだ。

 もちろん、社会的ステータスへのひとつのステップとしての可能性としての学歴の効用を否定することはない。しかし、学歴があるゆえに「もてる」わけではないのもまた事実だ。

 客観的指標での成功は、もてる・もてない問題といういばらの道を歩く際の杖程度のものに考えておいた方がよいんだということで。

 コンプレックスの行き先をきちんと見据えながら動くことが、もてない者の歩き方と言えるんだろう。


(2007年7月15日)

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