「江戸のかたきを長崎で・・・討たれたくはないけどね」

 

1.行ったことのない都道府県

 僕にとってもっとも主要な趣味のひとつは「旅」である。多分、お見合いとか自分の公式の趣味を問われる場に於いてもそう答えているであろう。

 旅にはお金は惜しんでこなかったし、今は勤め人であるから、旅に出るお金くらいはある。お金がほとんどなかった学生時代だって、休みとなればわずかにバイトで稼いだお金を青春18切符につぎこみ、全国を回っていた。今思うと、すごいと思う、普通電車を乗り継いで東京から九州まで行ってしまったり・・・。

 また、同伴者なしの旅行というのにも慣れている。通常、旅行と言うと、例えば、カップルでとか家族でとか複数を指す、そして、それは旅行者の前にあるパンフレットをひとつでも手に取ってみて見れば如実に分かるものである。ほとんどのツアーが2名様1室からそれ以上多数のグループ向けである。僕も、大学生になる前くらいまで、そういった固定観念にとらわれてきたものだ。しかし、知らない場所を訪れて見聞を広げるのに同伴者という存在は本当にいるのか?と考えた時、答えは否であると気づいたわけだ。どっか知らない場所に行きたいのなら、一人でも行ってしまってもいい、そんな考えから大学生であった時分から、どんどん一人でも旅に出ている。

 そう、僕はここで「旅」と「旅行」という言葉を使い分けている。前者の、同伴者が前提の世間の固定観念に対応するものとして「旅行」、後者のそのような固定観念から解放された一人でも行けるものを「旅」と。

 ほら、グループ旅行とは言うがグループ旅とは言わないし、一人旅とは言うが一人旅行とは言わないよね。

 そんな意味で、僕の趣味は「旅」だ。

 そう、あまりお金もなかったので派手に海外とか行けなかったけど(勤め人になってからはロシア・アメリカ・韓国と海外にも行くようになったが・・・)、国内はずいぶん旅をした。

 47都道府県が日本にはあるが、そのほとんどと言ってよいくらいの都道府県を訪れたことがあることになる。2003年7月11日現在、東からカウントして、秋田県、大分県、宮崎県、佐賀県、長崎県、沖縄県くらいに絞られてきた。

 前置きが長くなったが、今回、長崎を訪れることにした理由が、行ったことのない県であるということが大きいわけだ。

 勤め人になってから、なかなかまとまった時間が取れない、しかし、近場で行ったことがない場所というのもやはりあるから、関東近辺の小旅行が多くなってきた昨今、ひさびさの大旅行だ。

 知らないところを見る、という「旅」の目的にこれほどかなったことはないのではないだろうか。やはりわくわくである。

 2003年7月11日(金) 10:35  長崎市街へ移動中にて

 

2.爆心地にて

 空港からのバスで、長崎駅前まで行く前に途中下車してみた。長崎の一つ手前の駅が浦上というところだが、浦上駅の手前で降りてみたのである。大橋というバス停。

 大して、下調べをするでもなく来たのだが、それでもここで降りたのは大正解、平和公園のすぐそばであった。

 午前中のうちに、かの有名な平和祈念像に出会えたわけで・・・行き当たりばったり旅でいつもうろうろしている自分としてはとても効率がよい旅だと驚いてみる。

 平和祈念像の前で

 長崎も原爆被爆の地である。知識としては小学校時代から知っていたものの、現実に目の当たりにすると、やはりその悲惨さが思いやられ、そして戦争のむなしさを痛感するものである。もう一つの被爆地、広島を初めて訪れたのも2年前ということで、かなり最近だ。やはり、衝撃を受けたものだ。

 修学旅行なのであろう、多くの小学生達が来ていた・・・彼らは何を学び、感じているのだろうか・・・

 

 

 そうこうしているうちに、朝食もそこそこに飛び出てきたわけで、とてもおなかが空いていたので、近くの和泉屋というところで、長崎チャンポンを食べる。

 とてもおいしいし・・・なにより、盛りがよい。飢えていた僕も満足になるくらいだ♪

 2003年7月11日(金) 12:45  平和公園近くにて

3.平和について        

 さて、ちゃんぽんを食べて、おなかも落ち着いたところで、また、旅も続けたわけだが・・・平和祈念像に始まる平和の学びは続いた。

 ちょうど、長崎原爆資料館の隣のホテルが投宿先であったこともあり(だから、それこそ爆心地で長崎での2日間を過ごすことになったわけで)、早めにチェックインしてシャワーを浴びてゆっくりしたあと、長崎原爆資料館に行った。

 衝撃であった。広島でも同じことを思ったが、こちらでもそうだ。

 知識としては知っていた・・・長崎に落ちたのは、8月9日。落とされた原爆はファットマンと呼称された、ブルトニウム型原爆。火薬を周りから爆縮させてプルトニウムの反応を起こす仕組みだということなどなど・・・。

 確かに、展示物はその知識を復習させてくれるものだったかもしれない・・・。それ以上の知識もあった。

 しかし、知識ではないのだ・・・原爆に悲惨さ、そして、それが今後決して使用されるべきでないもの・・・そのことをまざまざと感じさせられた。広島の時もそう感じたのだが、ここでも同じことを感じた。

 特に目を引きつけられて離れなかったものは、熱線で焼かれた黒こげの母子の死体の写真。こわくてもう見まいと思うのだが、目がそちらを向いてしまう。幼い頃、原爆の写真展で、同じような黒こげ死体を見た。そのことを思い出した・・・あのころも同じ気分だったと思う。

 あとは、放射線障害でふくれあがった脾臓の標本。これも、目が離せず何度も見てしまった。

 放射線といえば、原爆だけでなく、世界各地で放射線障害に悩む体験者達のビデオが流されていた。ウラン鉱山での甘い管理で放射線障害(肺に腫瘍ができるなど)になった人々、核実験場の付近で放射線障害になった人々。

 核物質の平和利用とは言うものの、これもとても難しいものだと感じさせられたわけで。

 そういえば、夏場の電気利用の増加に向けて、福島の原子力発電所が再開されるということが最近のトピックニュースだが、原子力発電の燃料として使われるウランの掘削現場でそのビデオで指摘されたような現実があったとすれば・・・ それは、平和利用だからいいというわけにもならないわけだ。どうなのだろう?原爆は過去のことではない、現在にも通じることを訴えているのではないだろうか。

 いろいろなことを考えさせられた。そして平和のありがたさ、そして、大切さを本当に実感できた。

 広島の時もそうだったのだが、原爆の資料館に行くと、衝撃的なシーンの連続で本当に疲れる、でも、そんなぱっと出てきたことはない。平和についてこうやって学びの時を持てるというのはとてもよかったと思う。

 1945年8月9日午前11時2分(長崎の原爆投下日時)を忘れてはいけない。

 特段に計画を立てて来たわけではないのだが、長崎での第一日目は、平和についての学びの時になったね。気楽な物見遊山の旅というわけではないが、こういう有意義な旅は好きだ。よかったと思う。

 その後、浦上の天主堂を観て、稲佐山という長崎の景色の良いところへロープウェイで登り、皿うどんを食べて一日を終わる。

 一日目はゆっくりとすごそうかと思っていたが、期せずしてとてもとても充実した一日になったことは事実であった。

 2003年7月12日(土) 23:40  原爆資料館隣のホテルにて

4.シーボルトな一日        

 明けて翌日、旅の二日目(7月12日)はやはり前日の充実しすぎた一日の疲れが残っていたのだろう。お寝坊さんであった。

 特段予定を立てていないのは前日と同様だが・・・とりあえず、近くの路面電車の停留所に行く。こちらでは路面電車の停留所を「電停」と呼ぶらしい。

 最寄りの電停ではいくつかの路線が走っているのだが、はじめに来た路面電車が、シーボルト記念館の近くまで行く電車であったので、まずは、シーボルトについて学ぶことに決定。

 路面電車を降りて、住宅街を抜けていくと、やがてシーボルト宅跡に着く。その隣が、記念館だ。

 感動した!!そういう感じだ。

 シーボルトは有名な人物ですよね。小学校が中学校では必ず学ぶ。だから、よく知っていたつもりであった。

 しかし、本当の意味では知らなかったということに気づかされた。実はシーボルトはドイツ人で、シーボルト事件で追放後30年たって、また、帰ってきたほど日本を思っていたということも。そういえば、小学校の時、塾の先生がそのようなことをいっていたことを、記念館での展示を見ながら思い出した・・・すっかり忘れていたのだ。

 記念館でもっとも感じさせられたのはひとつ。シーボルトがものすごい日本を思っていたということ。例えば、追放後30年たって、ドイツ人の妻も持っていながら、2年数ヶ月も遠い異国の日本に戻ってきたということによく現れている。すごいと思った。

 シーボルト宅跡・・シーボルトがここにいたんだと思いにひたりました

 ここまでシーボルトに感激してしまった私は、次に行くのは出島しかなかろうということで出島に向かう。

 出島は、鎖国の江戸時代、オランダとの交易のため開かれた窓口的存在である。岸壁から出っ張った島みたいなので、出島なのだろう。これも日本史では必ず学ぶ場所ですね。

 でも、、今は出島っていっても島になっていないで、地続きになってしまっているんですね(^-^)これも、なんか実際に来てみてほーっと思ってみたこと(^-^)

 この出島にシーボルトもいたわけである。

 出島もなんかすごく見応えのある場所であった・・・

 往年の出島の模型

 今の出島・・・資料館(神学校跡)(全然、陸地です(^-^))

 長崎での貿易を学ぶ一日なったかなと思いつつ、この後は、グラバー邸のあるグラバー園まで足をのばし、今日もまた充実した一日になったのは事実である(^-^)

 前日が原爆という現代史であれば、今回はオランダ交易から幕末までという近代史・・・なんか歴史を学びに来たようでもある(^-^)

 

 2003年7月13日(日) 0:28  原爆資料館隣のホテルにて

 

5.長崎の夜        

 まぁ、旅に出ると、その開放感からだろうか、夜も少し遊ぼうかという気分になる(^-^)

 いや、まぁ、私の場合は夜遊びったって、おいしいものと一杯引っかけようかくらいなものであるので・・・いわゆる長崎ナイトをフィーバーというのとは意味を異にするものではなるが。

 実際、自宅にいる場合は、家でゆっくり映画などと言っても、洗濯機を回しながらだったり、食器を洗いながらだったりなかなかゆっくりできないものだが、旅に出ると、本当にやることは別にないわけでホテルに戻ってもテレビを見るくらいだから、夜はどっかで一杯やろうという気分にもなるし、そういう気分でくつろげるからこそ旅に出るわけだ。

 ということで、長崎の夜も味わってきたというわけだ。

 長崎でうまいものと言えば、ちゃんぽん・皿うどんは有名どころであるが、すでに昼のうちに食してしまったし、ちょっと一杯というテーマに沿わないわけだ。

 となると、卓袱料理というものもあるが、これは正式な座敷で食べるようなものであるから・・・ちょっと一杯の範疇に収まらない。

 そこで、長崎と言えば港町、新鮮な魚介類があがるわけだから、魚介をテーマに一杯飲もう。そういうことになったわけだ。

 旅も進んでくるとどこらへんが繁華街なのかということも分かってくるわけだが、思案橋電停から歩いてほどなくの「きゃべつ」という居酒屋さんがおいしいものを食べさせてくれるらしいということで行ってみた。

 あじ と いさきの刺身を食べたが、とてもおいしかった。あじはほどよく脂がのっていたし、いさきは長崎の名産と言うことらしい、意識的に食べたことがないことから珍しさも手伝ったが、こりこりした歯ごたえは独特であった。どちらもよかったわけで・・・すごく幸せになれた。

 生ビールがとてもうまい。長崎の焼酎、青一髪(せいいっぱつ)も飲んでみたりしつつ、ほろ酔い加減で思いをはせていた。シーボルトはどんな気持ちで長崎を去ったのであろう。グラバーはどんな気持ちで幕末の志士たちを支援していたのか・・・。いろいろひたれた。

 2003年7月14日(月) 21:33  自宅にて

 

6.長崎を旅して        

 長崎の夜を堪能して翌日、長崎の見ていないところを、見て回った。

 長崎の原爆投下後、自ら瀕死の重傷を負いながらも被災者救済に尽力し、その後寝たきりになってからは原爆の被害を執筆を通して世に知らしめることに尽力した永井博士の住まいであった、如古堂など・・・これもまた考えさせられた。

 日本二十六聖人殉教の地も行った。キリシタン弾圧の象徴的な場所であるが、これも考えさせられる場所である。

 そのほか、いろいろ・・・このたびの三日間で、長崎のめぼしいところはほとんど回ったと言えるのではないだろうか。

 そう、長崎をくまなく回って思ったこと・・・ここはとてもとても考えさせられる場所だと言うこと。平和について、日本を愛した外国人達について、キリスト教弾圧という前近代性について・・・本当にいろいろ考えさせられた。長崎の夜もそういった思考を肴に酒を飲んだくらいだから。

 行ったことがない県だから、けっこう軽い気持ちできたのも事実だ。しかし、ここで、こんなにも深く考させられたのは、意外ではあったが、思いもかけず有意義であった。単なる物見遊山の旅で終わるのではやや切ないからだ。それだけ長崎という場所は、大きくはないにしろいろいろ詰まっているところと言えよう。

 とてもよい旅になった、それは間違いない。

 2003年7月14日(月) 22:13  自宅にて

 

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